長谷川亮の絵と格闘技と私【第2話/全12話】
2002年、格闘技のビデオを扱う日本スポーツ映像で雇用され親会社が発行するゴング格闘技も手伝うようになり、それまで見たことのなかった競技も見る機会が増えました。
ブラジリアン柔術との接点もこの時が最初。もちろんグレイシー一族で柔術は知っていた訳ですが、ブラジリアン柔術の試合も見るようになったのはやはりゴン格と関わりを持つようになってからです。
当時まだブラジル開催だったムンジアルの様子がJ SPORTS(CS放送)で紹介されており、その再放送を編集部で目にしたのがブラジリアン柔術初遭遇だったと思います(ここら辺記憶が曖昧)。
前後して「プロ柔術GI」の開催が今はなきディファ有明であり(2002年5月2日)、当然細かい攻防は分からない訳ですが、そんな初心者でも強さと凄さが分かるブラジル勢(レオジーニョ、ヒカルジーニョ、マルコス・バルボーザ)に衝撃を受けました。
先日、全試合一本勝ちで黒帯ライト級の全日本王者となった森戸新士選手が「ゴードン・ライアンとか海外の選手も『一本で勝たないと競技としても面白くない』みたいなことを言っていますし、やっぱりポイントで勝つより一本で勝ちたいと思ってます」と試合後に話していましたが、柔術では一本、立ち技格闘技であればKO、ハッキリした決着は一般層にもその魅力を伝えるものだと思うのです。
この日のレオジーニョとバルボーザの勝ちぶりがそれで、ヒカルジーニョのド派手な動きもビギナーに凄さと強さを植え付けてくれました。それは格闘技観戦初期に、ムエタイやタイ人に衝撃を受けたのとよく似ていました。
J SPORTSで見たムンジアル会場のカラフルさ&賑やかさも印象的かつカルチャーショックで、“いつかやってみたい”という気持ちが芽生えたのですが、実際ブラジリアン柔術を始めるのは2010年、ここから8年を要します。タネが蒔かれても発芽するのが遅い人間みたいです。
そこから時は巡り翌2003年、株式会社アッパーの一員としてゴング格闘技編集に携わっていました。
編集部員は各々担当団体を持って取材に当たりますが、2002年に旗揚げしたZSTの担当を仰せつかり、03年春のリトアニア遠征にも同行。PRIDEヘビー級王者となったばかりのヒョードルがメインを飾り、会場で暴動が起きかけたりといろいろ大変でしたが、遠く離れた異国の地まで取材に赴け、いい時代でした。
そんな中、03年9月7日に行われた『ZST.4』ジェネシスバウト出場選手に「花くまゆうさく」の名が。
花くま先生との初遭遇がいつだったかもう定かではありませんが、映画やプロレス・格闘技について綴った絵と文章をよく読んでいて、本も買って持っていました。
中でも『青いオトコの汁』は日本娯楽映画の金字塔『トラック野郎』シリーズの魅力を教えてくれた忘れられない名著です。
また、先生は映画『アンチェイン』に“後楽園ホールのリングに立ったら男として上がりだ”というコメントを寄せていて、その言葉を真に受け、後楽園に立つのを決意するのですが、それは少し先の話です。
9月7日、試合を終えたばかりの花くま先生に『青いオトコの汁』とマッキーを持って突撃。「試合の後だから手が震えちゃってゴメンね」と言われながらサインをもらいました。こちらこそ試合直後にすみません。
そんな花くま先生がやっているイラストクラブがあるのを知ったのはおそらくこの頃だったと思いますが、辿り着くまでここから9年掛かります。
“いろいろ遅ぇーよ”とツッコんだ2021年夏。
つづく。
【第2話 終】