井賀孝の写真の話【第7話/全12話】
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『表現と記録』
カメラマンは発信するに足りない写真もたくさん撮っている。発信する機会がないと言い換えても良いかもしれない。カメラマンは少しでも心が動いたらシャッターを押すわけだが、それらには社会的意味もなければ、絵的に大して面白いわけでもないという、平凡、いや駄作なものも多い。当然、発表する機会もない。もちろん人が見ていようがいまいが、SNSで一方的に発信することは可能だが、一方的に発信するというのは美しくない。
曲がりなりにもプロとしてやってきたので、発信する意義や意味、それによる波及効果などを考える。クリエティブに関しては、自分が満足すればそれでいい、マスターベーションは嫌なのだ。となると、客観的に見て、これは出すほどじゃないなとなる。そんな写真たち。
一方でそんな重々しく考えるなよと、写真とはもっと気軽なもの。サクッと撮ってサクッと出せばいいじゃん。気に入らなきゃ削除すればいいし、という考えもあるだろう。デジタルになったら尚更。
ただ写真が面白いのは、表現としてはいまひとつ面白みに欠けていても、時間が経過すればアリになるところだ。時間が経過すればするほど、そこに収められた情報は価値をもつ。撮ったひとが亡くなれば、亡くならなくても歳を重ねれば、撮った建物が取り壊されれば、撮った街が変容すれば等、このようなことは枚挙にいとまがない。これが数ある表現方法の中で写真だけがもつ特性だともいえる。作家性など必要ない。
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